日別アーカイブ: 2018年2月5日

いつか来るのか来ないのか、来たらそれが一番怖い

うずが亡くなって、二週間が過ぎました。気持ち的にはどうでしょう? だいぶ落ち着いてきました。

亡くなって数日間はかなり辛かったですが、その間も仕事や学校の授業のほか、デザイナー協会の勉強会と交流会もあって、気持ちを紛らわせることができました。

ふと、自分が辛い時に、それらを休んじゃってもいいかな…?と思う自分も、チラッと居ました。大きな哀しみに浸る時間があってもいいじゃないか、その時間の為なら許されるのではないか、みたいな。

自分の弱い部分で、それに飲み込まれるというか流されるというか。時にはそんな気持ちに従ってもいいんじゃないか、という思いです。ダークサイドに落ちるような?

実際にはそれらの予定は全てこなしましたし、休まなくて良かったです。

学校の授業は年度末最後の合評で、学生の作品を私が批評しなければなりませんでした。半年一緒にやってきた最後に、何も言わずに欠席することは、生徒に申し訳ないと思いましたし、一生懸命作った作品を、無言で受け取ることはしたくなかったのです。

協会の勉強会は会員が仕事の内容を紹介して、その後に参加者と交流会をしました。私は運営する側として参加して、いつも顔なじみの仲間と新しく知り合った人も居て、その間はうずのことも忘れていました。

悲しことがありましたが、それら自分が必要とされている場があることは、とても有り難いと感じました。正直なところ、突き詰めれば私が居なくてもなんとかなるのですが、私自身が必要とされていると思える、そうやって足を運べる場があることは、前向きな気持にもなれて本当に有り難いです。

ヨメさんとは、ずっとうずの話をしています。亡くなった直後の数日間は、ボロボロ泣きながらでしたが、今では涙は流さず、あんな事やこんな事もあったというような思い出話をしています。

うずが居る時も、四六時中うずのことを意識していたわけではありません。背伸びをして手を伸ばすとそこにうずが居て、フサフサの毛を触ったり、テレビを見ている時に部屋を横切ったり。仕事をしている時はヒーターの近くのハウスの中で寝ていて、たまに押入れの奥で寝ているときなど、存在を気にしない時間も多かったです。

それで行くと、今も似たような状態です。今、居たとしても私の視界に入っていないだけで、どこかで寝ているときと同じような感じ。

うずが突然居なくなったこともあって、まだ現実味がないのかもしれません。

でも、ふと、うずが居る感覚に戻る時があります。外から戻って玄関を上がるときや、部屋のドアを開けるほんの瞬間。本当に0.1秒位でしょうか、頭の中にうずが居た時の感覚が、一瞬蘇ります。 「あ、居るんちゃう?」と思って、すぐに居ないと実感もします。

かといって、その瞬間が悲しいわけでもありません。

テレビやネットで、キジトラの猫を見ても全然大丈夫です。ペットを飼っている方ならわかってもらえると思いますが、ある時期から猫じゃなくて「うず」になるんですよね。「うず」という生き物に。なので、テレビでキジトラが出ても「うずじゃない」とハッキリ意識して悲しくなることはありません。

でもそれが、急に来ることがあります。

先日、一人で外を散歩していると急に悲しくなってきました。うずはずっと室内でしか飼ったことがなく、外の何かで思い出すことも無いはずですが、なぜか突然にグッと来ました。冬の寒さのせいもあるかもしれませんが、そういう突然の悲しみが、外で何度かありました。

なんとなく、どこかで我慢している自分も居るような気もします。うずが何処かに行って、今はそばに居ないだけでモフモフした毛を触るのを、抱っこするのを我慢しているような感覚もあります。

それがいつか、本当に居ないと実感する日が来るのか、もし来るのなら、その日が今の私にとって、一番恐れている瞬間です。

その日が来るのか来ないのか、この感覚のまま慣れていくのか、自分でもわかりません。